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『四人姉妹』の成り立ち/岩松了

その日『浮雲』の稽古を7時すぎに切りあげ、私はめずらしくまっすぐ家路についた。鷺沼駅でバスに乗ろうか歩いて帰ろうか迷いまだ時間も早いしと歩きはじめ、そういえばしばらくパチンコしてないなと思いパチンコ屋に入った。まだ玉は買わず、シマからシマを歩いてその店の出具合を見てまわり、うーん、なんか出そうにないな、とそのまま出口に向かい、外に出て、テクテク歩きはじめた。家が近くなった頃、時刻は8時半頃だったと思う。外から見える私の部屋の明かりがついていて、私の部屋の机の上を女房があさっている!おのれ、たまに早く帰宅すれば、と玄関のドアをあけると、その音を聞きつけた女房が、二階からバタバタと降りてきて
「ねえ、きょうピッコロシアターの人と待ち合わせしてるでしょ! 7時半、京王プラザだってよ!」
一瞬の「ん?」ののち「え?」とつづき、「アラ?」と私がつぶやく、その悠長にたえきれぬとばかりに女房は言った。
「ファックスで知らせたはずなんですけど届いてなかったんでしょうかって言われて、私今、そのファックス、捜してたのよ!」
「きょうだ!」
私は京王ブラザにすぐ電話を入れ、今からうかがいますけど、待っていただけるでしょうか、と言った。待ちましょう、ということだった。私は横浜市に住んでいる。新宿の京王プラザまで一時間半はかかるだろう。くそっ、電車の中でいくら走っても着く時間は変わらない。人生で、何度こんな経験をすればいいというのか!
山根館長、荻野次長、演出家の藤原新平さんが待ってて下さった。
私は申し訳なさに身もちぢむ思いだった。なにしろ時すでに10時。約束は7時半だったのだ。
初対面の山根館長と荻野次長を前にして私は、原稿依頼の言葉を聞くか聞かないうちに「書きます、書かせて下さい」と言っていた。
「ええっと…兵庫…神戸…谷崎ですね…細雪やります…細雪に水害のシーンありましたよね…あそこやります」いいかげんな男とののしられてもかまわない。実直な男とほめられたら悲しい。
「あの時ね、すぐにビーンとインスピレーションがわいたんですよ、あ、細雪だなって」
それくらい言わないと体裁はつかないだろう。いずれにしても、それがはじまりだった。〆切りを翌年の2月と設定された私は、12月に、ピッコロシアターにお願いして、3日間のワークショップを開かせてもらった。何しろ20人の劇団員がいるのだ。誰の顔も知らずに本など書けるわけがない。いや書けるには書けるが、私はその書き方が自分のためにならないと思っている。
お見合いもせずに結婚するようなものだ。
こっちにだって作戦てものがある。
ワークショップののち、私は、直接『細雪』をやることには、何の演劇性も感じなくなっていた。
それから東京で、藤原新平さんと何度か会い、こういう話にしたいのですが、と構想の途中経過を話し、藤原さんの意見をうかがった。すると藤原さんは言った。
「あ、それ、レベッカみたいですね」
私は『レベッカ』を読んでいなかった。すぐに文庫の上・下巻を買いそろえ、ヒッチコックの『レベッカ』もみた。
いや、それだけのことなのだが、構想を練っている時というのは、それこそチリでもホコリでもという心境なのだ。
見てきた風景、会った人たち、のように、『レベッカ』の中のことが私の中に潜在化されれば、あとはヘタに何かを引用しようなどと考えさえしなければいいのだ。それがどのように私が書く戯曲に投影されているか、わからぬことこそ醍醐昧というものだ。
そして私は『四人姉妹』を書きはじめた。
書きながら、時折『細雪』に思いをはせるためにその小説をパラパラとめくっていた。『レベッカ』という文字が見えた。何?と思わず私はつぶやいてしまった。『細雪』の中に『レベッカ』が出てくる!?
出てくるのだ…三女雪子が四女妙子の看病をするために、家から『レベッカ』を持ってこさせて、看病の合い間にそれを読むという状況らしい。
1本の戯曲を書いていると、必ず何か偶然のようなものが重なってくる。そしてその偶然は、なぜか私を嬉しがらせる。
書くというごく個人的な苦しみ(喜びでもいいが)を、どこかで誰かに見られていて、そのことを知らせるために、この偶然は仕組まれているのだ、そう思えるからだ。もっとも、その嬉しい気持ちとて、誰かに声高に叫ぶテイのものではないのだが。
〈劇作家・演出家〉

 

 

 

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